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大家都知道日本人平时说话很少涉及到主语的部分,尤其是在说道自己的时候更是能省则省,从文化的方面我们多少都能了解一些其中的原因,但现代日本人是怎么讲这个的,下面我们就一起来看一下日本人如何看待说话没有主语的关系。参与未名天日语网校听力营,轻松备战N1N2能力考听力。
大家都知道日本人平时说话很少涉及到主语的部分,尤其是在说道自己的时候更是能省则省,从文化的方面我们多少都能了解一些其中的原因,但现代日本人是怎么讲这个的,下面我们就一起来看一下日本人习惯句子里没有主语这件事么。
和文英訳をしていると、主语が省略された文章に気づくことが多々あります。ただ日本语として読む时には何の违和感も覚えない文章でも、ほぼ必ず主语を要する英语に訳す时には、和文に主语がないことが気になることが多いのです。そしてその度に、日本语は何故これほど主语が省略されているのに当たり前のように意味が通じるのだろう、と不思议に思っていました。
在日译英过程中,我经常会注意到那些主语省略的文章。有些文章单看日语没什么别扭,可一旦翻译成英文(基本上需要有主语),就会让人对其省略现象有些在意,这是常有的事。每每此时,我都会觉得很不可思议,为何日语省略了这样多的主语,意思却还能如此通顺呢?
日本语は、よく「行间を読む」文化、「言外の意を覚る」文化だと言われます。日本语を学ぼうとしている外国人に「日本语には何故主语がないのか」と闻かれるたびに、そのように暧昧に答えていたと思います。しかし、それは本当でしょうか?はじめから主语が「ない」状态で文章が意味をなし、不便なく相手に文意が伝わっているのであれば、そこにはそもそも「省略」されている主语など存在すると言えるのでしょうか?
人们经常说,日语是这样一种语言文化——读懂字里行间、悟出言外之意。每次被外国的日语学习者问道“日语为什么没主语”时,我们总是给出这样一个暧昧的答案。可事实真是如此吗?既然没了主语的文章本身就有意义,且能让读者顺畅地理清文意,那还能下这样的定论,说“省略”了的主语其实是存在的么?
まず、会话の场合で考えてみましょう。以下の例文に主语を付けてみたいと思います。
首先,我们从会话角度来思考下,给下面这些例句加上些主语试试。
(例)
A:「昨夜は、残业しましたか?」
B:「いいえ、していません。」
A:“昨天晚上加班了吗?”
B:“没,没加班。”
A:「昨夜は、あなたは残业しましたか?」(Didyouworklatelastnight?)
B:「いいえ、私はしていません。」(No,Ididn’t.)
A:“昨天晚上你加班了吗?”(Didyouworklatelastnight?)
B:“没,我没加班。”(No,Ididn’t.)
「していません」に补われるべき主语は「私は」になると思いますが、「私は」を追加すると、日本语では、周りの人は残业をしたかもしれないが、少なくとも自分はしていない、といったニュアンスを含んでいるような意味合いに変わってしまいます。
我想,加在“没加班”前面的主语应该是“我”,不过这么一来,这句话在日语中的语感就会有些不同了,变成“周围的人或许加班了,至少我没有”。
日本语における助词「は」と「が」の违いの説明のひとつに、「は」は「~に関して言えば」や「~について言えば」に置き换えられ得る、という説明をよく耳にします。今回の场合に当てはめてみますと、「いいえ、私に関して言えばしていません」となりますが、Aが「あなたは残业をしましたか」と対象をすでにBに绞って质问しているのだとすれば、「私に関して言えば」と第三者の残业の可能性について触れる事自体に违和感を覚えます。とは言え、「私は」以外に当てはめられる主语は日本语にはありません。
关于日语助词“は”、“が”之间的区别,我们经常能听到这么一个解释,说“は”可以替换成“~に関して言えば(说到关于……)”“~について言えば(就……而言)”。换成上面这种情况,就变成“没,要是说我的话,我是没加班的”,既然A问“你加班了没有”,其实就已经把对象定格在B身上了,而“私に関して言えば”这种回答又提到了第三者加班的可能性,这本身就有些矛盾。可话说回来,在日语里,除了“我”,这里也没别的合适的主语了。
それでは、书き言叶は如何でしょうか?日本で最も有名な文章の一つである、以下の书き出し文に、无理矢理主语を补うとどうなるのでしょうか?
那么,书面语又是什么情况呢?下面这段话是日本最出名的文章之一,如果我们在这段开头语中强行补上主语,会怎样呢?
(例)
吾辈は猫である。名前はまだ无い。どこで生れたかとんと见当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは记忆している。吾辈はここで始めて人间というものを见た。
我是猫,名字还没有。出生在什么地方,我一点也不清楚,只记得曾在一个昏暗潮湿的地方,咪唔咪唔地哭泣着。我在那地方第一次看到叫作人的这个东西。
吾辈は猫である。吾辈には名前はまだ无い。吾辈がどこで生れたか吾辈はとんと见当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所で吾辈がニャーニャー泣いていた事だけは吾辈は记忆している。吾辈はここで始めて人间というものを见た。
我是猫,我还没有名字。我出生在什么地方,我一点也不清楚,我只记得曾在一个昏暗潮湿的地方,我咪唔咪唔地哭泣着。我在那地方第一次看到叫作人的这个东西。
如何でしょうか?もちろんかの文豪が一つ一つ敢えて主语を付けようとしたのなら、上记の日本语文章ほど野暮ったくならないでしょうが、一例として见た场合、このように主语を足しても特に付加する価値や意味がないのみならず、もともと美しく流れるリズムをもった文章が、何ともたどたどしい、読みづらい文章になってしまいます。
怎么样?当然,如果这个大文豪硬是把一个个主语都加上的话,应该也不会像上面写的那么俗,但是通过这个例子,我们能看出,主语要是这么个加法非但没什么特别的意义,还会破坏原文的节奏美,使其变得结结巴巴、难以阅读。
そして「美しい」文章が求められる文学の世界だけでなく、日々私たちの身近にある新闻や雑志等の记事、手纸?メールなど、情报伝达の手段として「机能」を追求した文章ですら、同じことが言えるのです。
除了追求美感的文学世界,还有作为信息传递手段每天围绕在我们身边的功能性文章,比如报纸杂志等的报道、书信、邮件等,也是一样的道理。
(例)
本日午後御社付近におりますので、もしご都合がよろしければ、10分程度お时间を顶戴できますでしょうか?
今天下午会路过贵公司附近,如果方便,可否耽误您十分钟?
本日午後私は御社付近におりますので、もし贵方のご都合がよろしければ、10分程度私がお时间を顶戴できますでしょうか?
今天下午我会路过贵公司附近,如果您方便,是否能允许我耽误您十分钟?
いたずらに主语を书き并べることは、「不必要」なのではなく、正确な情报を伝达する上で、「妨げ」になってしまいます。存在することで「妨げ」になるのであれば、「省略」されているとは言えないことになります。
无谓地陈列主语不是没用,而是“妨碍”信息的准确传达。如果其存在本身就是一种妨碍,那也就谈不上什么省略了。
日本语に主语がない理由を问うのは、英语には何故主语が必要かを问うのと同じです。それぞれの言语には、属する文化や必要に応じた固有な特徴があり、一方を他方の特徴に当てはめて捉えようとする认识方法を见直すことで、ちゃんと见えてくる世界がありそうです。
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