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全国翻译资格证书日语三级
笔译综合能力考试(2005年)
三、読解(50点)次の文章を読んで、(51)~(75)の問いに答えなさい。そしてA~Dの選択肢から正しいものを一つ選んで、解答用紙に記号で記入しなさい。(2点×25=50点)
文章1
今年の海上保安白書は「海がまるでごみ捨て場になっている」と警告する。
油や工場廃水に加えて、このところ目立ってきたのは廃棄物による汚染(51)だ。昨年20年前の2倍にのぼった。なかでも産業廃棄物の不法投棄が増えた。建築資材の上を残土で覆ってごまかし、こっそり運ぶなど、手口が巧妙になってきた。
(51)「廃棄物による汚染」の例として、本文と関係ないものを選びなさい。
A.産業廃棄物 B.家庭用ゴミ C.プラスチック D.発泡スチロール
文章2
人間と動物、動物と機械は、それぞれ決定的に異なる何かがあるのだろうか。それとも、その違いは、距離の差に過ぎないのだろうか。
ここでは、たとえばその中の二つ、動物と機械の差を考えてみよう。たしかに機械は無生物であり、動物は生物の一部にほかならない。()(52)は対立する概念なので、機械と生物はまったく異なるものということになる。
()(53)、たとえば現代の自動車工場では、日々、ロボットを使って自動車が製造されている。この様子は、極端に言えば、まるでロボットが自動車をつくり続け、人間の労働者は、あたかもそのロボットの補佐役のようであるとも言える。そして、この工場のシステム全体を見ると、それが一つの生き物のようである。これは、機械が機械を生んでいる、動物で言えば「世代交代」をしているかのように思える光景だ(54)。
「世代交代」は、「自己増殖」と並んで、生物と無生物を分ける、生物の決定的な特徴とされている。だが、上記のように、今日のロボットや自動車は機械であっても、またその巨大な集積であるFA工場は機械システムであっても、「世代交代」(55)という機能をもっており、少なくともその面では、動物もしくは、動物の種の姿に近いと考えることができる。そう考えると、生物とは対立するはずの機械も、その違い(56)は単に距離の差に過ぎないと言える。
(52)ここの()に入れるのにもっとも適当なものはどれか。
A.生物と動物 B.生物と人間 C.無生物と生物 D.無生物と機械
(53)ここの()に入れるのにもっとも適当なものはどれか。
A.だが B.したがって C.おまけに D.ようするに
(54)筆者は自動車工場における人間の役割はどのようだと言っているか。
A.ロボットではできないような作業をしている。
B.ロボットが自動車をうまく作るのを助けている。
C.ロボットが自動車を作るのを見ているだけである。
D.ロボットに指示を与え、うまく使って、自動車を作っている
(55)「『世代交代』という機能をもっており」とあるが、その「機能」とは何か。
A.ロボットが自動車を作り出していること
B.人間が新しい機械を作り出していること
C.同じ種類の自動車がどんどん作られていること
D.人間がロボットを使って機械を製造していること
(56)「その違い」の指す内容はどれか。
A.ロボットと自動車の違い B.動物と動物の種の違い
C.動物と機械の違い D.動物と生物の違い
文章3(63)
人生はたえざる選択の連続である――これはおそらく文句のつけようがない定義だ。「我、思う。故に我あり」を実生活に置きかえると、「我、選択す。故に我あり」ということだろう。
(中略)
現代がことさらあらたまって選択の時代と騒がれるのは、ニュー.メディアなどの導入により生活の表面的選択肢が増えたからではない。経済神話と神妙な精神主義に無抵抗であったこれまでの「会社人間」たちの世代が、だらしなくも、自ら選択を下すことを忘れていたからだ。狼は選択するが、ヒツジの群れは選択しない。いったん群れの一員として馴致されると、これはこれで気楽な境遇といっていい。羊飼いに管理され、番犬に導かれるままに動いていれば、生命の危険はない。飢えることもない。でも、ヒツジにだって多少の自尊心はある。本当は完壁に管理され、判断を放棄し、選択の勇気も持っていないのに、そうではない、と思いたい(57)。となると、自らを暗示にかけるか、いわば「疑似選択」を行うことによって、かろうじての自己の存在証明を求める以外ない。暗示は、組織と自らを一体化しようという心の動きである。疑似選択はいくらでもできる。「右に曲がれ」という番犬の命令に逆らうふりをしてちょっと左へ走ってみるのがそれだ。他の仲間より少し早く(あ
るいは遅く)走る自由がそれだ。あてがわれた餌のうち、これを食べ、あれは食べない、という選択もそれだ。しかし、実際にはこんな自由や選択にはたいした意味がない。あくまで主人が許容した範囲内での自由であり、選択であるのだから。
人生は選択である、といったが、本当をいうと実生活において私たちは多くの場合、この種の選択をさも仰々しげにしているに過ぎない。選択ごっこ、といっていい(58)。
たとえば、どの学校に入るか、どこへ就職するか――。ごっこの中でもこの辺は案外深刻な選択だが、もともと進学、就職というだれが決めたかわからない人生コースをそのまま受け入れ、そのコース内での選択であるから、どうころんでもたいした違いはない(どうころんでも自己を見失わぬ、というだけ強固な自己を持っていれば、の話であるが)。また、休日に山へ行くか海へ行くか、あの馬に賭けるかこの馬に賭けるか、トヨタを買うかニッサンを買うか――この類の大小無数の選択に直
面しながら私たちは日々を生きているわけだが、結局のところはこれらはみんな()(59)。選
択を楽しむ、という程度の意味しかあるまい。今、ふりかえって、「選択を誤ったとき」の切実な思い出が一つも浮かんでこないのは、私自身も「人間の条件」を忘れたヒツジの群れの一員(60)として、ときにぶつくさ文句をいいながらも結局は太平楽にこの世を生きてきたからにほかなるまい。
となると、人生は選択の連続である、という当初の定義もあやしくなってきた。むしろ、選択ごっこの連続であるといい直すべきか。やはりそうは思わない(61)。たとえ、それが日常生活の中の小さな選択でも、それが何らかの形で自らめざす人生の実現にかかわってくる塀の選択であれば、そのひとつひとつが真剣勝負と思いたい。少なくとも自己との対話においては、それだけ気を張って毎日を生きたい。個々の選択はゆるがせにできぬが、その当否はすぐ明らかにはならない、日々の小さな選択の集積の収支決算がいつか徐々に表面化しはじめ、棺に入る直前になって人は「オレは然るべく生きた」あるいは「どうやらオレは選択を誤った」と初めて口にできるのではあるまいか。だから、まあ、とりあえずは小さなことでくよくよするな(62)、ということにもなるのだが――
(57)「そうではない、と思いたい」とあるが、どのように思いたいと言っているか。
A.自分で判断できると思いたい。 B.選択肢が増えたと思いたい。
C.生命の危険がないと思いたい。 D.飢えることがないと思いたい。
(58)「選択ごっこ、といっていい」とあるが、その理由は何か。
A.実生活ではどう選択するかの判断を放棄しているから
B.実生活ではどう選択してもたいした違いはないから
C.実生活ではどう選択するかを楽しんでいるから
D.実生活ではどう選択してもけっして誤らないから
(59)ここの()に入れるのにもっとも適当なものはどれか。
A.誰かが選択してくれるものだ B.選択しなくてもいいものだ
C.非常に重要な選択なのだ D.どうでもいい選択なのだ
(60)「ヒツジの群れの一員」とあるが、そのわけはどれか。
A.多少の自尊心はあるということ B.今までに選択をしてこなかったということ
C.生命の危険もなく、飢えることもないこと D.管理され、判断を放棄しているということ
(61)「やはりそうは思わない」とあるが、ここの「そう」が指す内容は何か。
A.人生は選択の連続であること B.人生の選択を誤ったこと
C.人生は選択ごっこの連続であること D.人生は無数の選択に直面すること
(62)「とりあえずは小さなことでくよくよするな」とあるが、筆者がこのように思う理由は何か。
A.選択の結果は死ぬ直前までわからないのだから
B.選択を間違えても、結果は同じだから
C.選択はあくまで許容された範囲内での選択なのだから
D.選択は本来遊びのようなものだから
(63)「文章3」は日々の選択について述べているが、筆者の主張は次のどれか。
A.重要ではないし、間違えてもたいしたことにはならない遊びのようなものである。
B.決定的ではないかもしれないが、それらが集まって人生を形づくるのだから、真剣に行うべきだ。
C.選択の一つ一つが人生を左右する非常に重要なものだから、人と相談して慎重に行うべきだ。
D.ある範囲内での選択なのだから、自分で選択しているように思っても、実はそれは誰かに
管理されているものだ。
文章4
人間関係は、日常会話の上に成り立っている。誰かと気まずくなるというのは、この日常会話がうまくいかなくなることである。もし、「気まずくなる」ではなく、「だめになる」というのであれば、それは、「絶交」ということだから、顔を合わせることもないだろう。「気まずくなる」というのは、()(64)ということである。
誰かと気まずくなったら、まず、深く考えないで、どうでもいい一言から始めるのがいい(65)。なわとびを跳ぶタイミングを逸しただけなのだから、また、さりげなく、なわとびに参加すればいいのだ。そこで(66)、何か気の利いた一言をと思うと、意識しすぎて、また、なわとびが跳べなくなる。
日常会話が以前のように交わせるようになったら、どこかで、「」(67)という言葉を贈るといい。ほんのささいなことでも感謝するようなことがあったら、「」(67)と言うのだ。それは、何かして貰ったことに対する感謝の気持ちでもあり、こうして、普通に日常会話ができるようになったこと(なわとびを跳べるようになったこと)への喜びの気持ちだと伝わるはずである。
人間関係を悪くする一言というのは、その(68)逆を考えればいい。相手の悪口を言ったとか、心無いことを言って傷つけたとか、怒らせるようなことをしたというのは論外である。それよりも難しいのは、自分が気づかないうちに、人間関係をこわしてしまった時である。「そういうつもりではなかったのに」とか「誤解で」と言い訳しても、人間関係は、ささいなことで悪くなるのだ。例えば、あなたが真剣に話している時に、相手が日常会話のように聞き流してしまったらどうだろう?あなたは怒らないまでも、「この人に話した私が馬鹿だった」と思うに違いない。第三者が介在してる場合を別とすれば、人間関係が悪くなる時というのは、深く考えずに発した一言であることが多い。僕の友人はある人に真剣に話をしている時に、「どうでもいいじゃない?そんなこと……」と言われて、()(69)と誓ったと言っていた。
日常会話から非日常会話になった時(70)、回転が早くなったなわとびに足を引っかける人が多いのである。日常会話を上手にしたいものである。
(64)ここの()に入れるのにもっとも適当なものはどれか。
A.絶交につながるタイミングを持っている
B.絶交につながってしまう
C.日常会話を交わすチャンスがなくなっていく
D.日常会話を交わすくらいのチャンスが残っている
(65)「深く考えないで、どうでもいい一言から始めるのがいい」とあるが、その理由は何か。
A.一緒にしなければならない「なわとび」などに、気軽に誘うことができるから
B.気軽に話しかければ、相手が真剣に聞いてくれるから
C.何を話すか意識しすぎると話しにくくなるから
D.不真面目な態度のほうが相手をリラックスさせるから
(66)「そこで」の指す内容として正しいものはどれか。
A.日常会話がうまくいかなくなった時。
B.なわとびを初めて飛べるようになった時。
C.なわとびを飛ぶタイミングに失敗した時。
D.気まずくなった相手と、再び話すチャンスができた時。
(67)ここの両方の()には同じ言葉が入る。もっとも適当なものはどれか。
A.おめでとう。 B.うれしい。 C.ごめんなさい。 D.ありがとう。
(68)「その」が指す内容として正しいものはどれか。
A.人間関係を修復するのにさりげない一言が役に立つということ
B.人間関係を修復するのに感謝の言葉が欠かせないということ
C.人間関係を良くするには気の利いた一言が必要だということ
D.人間関係を良くするには真剣に話すことが大切だということ
(69)ここの()に入れるのにもっとも適当なものはどれか。
A.二度とその人を怒らせるような話はしない
B.二度とその人とはまじめな話をしない
C.もう一度その人に真剣に話さなければならない
D.真剣な言い方をさりげない言い方に変えよう
(70)「非日常会話になった時」とあるが、それはどんな時か。
A.深く考えずに言葉のキャッチボールをしている時
B.気づかないうちに人間関係をこわしてしまった時
C.相談や悩みなどを言った時
D.二人の会話に第三者が介在した時
文章5(75)
人間はなぜ服を着るのか。寒さを防ぐためだとか、肉体を隠すためだとか、むかしから主張されてきた。たしかに、衣服にそうした役割がないわけではないが、それは衣服の役割のほんの一部にすぎない。それだけなら、流行を気にしたり、デザインを考えたりする必要はないだろう。
他方、最近はやりの考え方として、衣服は、かたちや色、素材で構成するゲームだという主張がある。こちらのほうは、個人の自由を過大評価して、逆に、社会規範のもつ()(71)の存在を無視している。ところが、衣服をめぐる問題のむずかしさは、なにを着るかなどという、一見、個人の自由に属するようなことがらを、実際には個人がひとりでは決められなくなっていることに起因する。たとえば、「きちんとした服装」ということばがある。人前に出るときには恥ずかしくない格好を、などともよく言われる。これなどは衣服の選択がいかに社会化されているかの証拠であろう。(1)
衣服の選択が社会化されているとは具体的にはどういうことなのか、ここで考えてみたい。ミメティスムという語がある。ある種の動物は身を守るために環境の変化に応じて外見を変化させる。日本語では擬態と訳されているようだが、保護色はその代表である。ミメティスムのもうひとつの意味は、無意識に他人の真似をしてしまう、ということである。人間の場合、このようなミメティスム行動は、おもに衣服を通して行なわれる。()(72)動物とちがって、人間の心はかなりわがままにできている。他人と同じでは気がすまないという、反ミメティスム的な衝動ももっている。(2)
文明社会のなかで、衣服が、文化となり、経済活動の重要な構成要素となり、あるいは社会秩序の不可欠の要素となったのは、人間がミメティスムと反ミメティスムの二つの傾向を併せもっているからである。しかし、この二つの傾向が自由に実現されるようになったのは、じつはそんなに古いことではない。他人と同じ格好をしてもよいし、他人と異なる格好をしてもよい。そのことについてだれからも規制を受けない。このようにだれもが自分の好きな格好ができる、いわゆる「服装の自由」
は、生活規範(エチケット)の階層化された身分制社会の枠組みとは相容れないものだったからである。(3)
さて、身分制社会が消滅し服装の自由が確立されたときに、どんな状況が出現したのであろうか。各人が気ままな服を着た自由で多様性豊かな光景が出現したのかといえば、まったくそうはならなかった。多くの人々にいつのまにか類似の服装をさせてしまう、流行という名の新現象が発生したからである。しかも、この新現象は、生理的には必要がないと考えられるものまで買わせてしまう、そういう心理的な強制力を備えた動きなのであった。(4)
流行現象はすでに江戸時代からあったとよくいわれる。武家のようにヒエラルキーの尊重が最優先された社会では、服装の自由はむしろ制限されがちであった。ところが、町人階級では生地や色などの面で形式的には制限を強いられていながらも、実質的にはかなり自由な服装ができた。とはいえ、江戸時代においては、流行現象の規模は、明治以降とくらべればごく小さなものであった。それは流行というよりもブームと呼んだほうがよさそうである。社会のほとんどすべての構成員を巻き込んで進行する継続的な社会現象としての流行とは、質を異にするものであったといわざるを得ない。そもそも流行現象が成立するための基本条件としては、社会的な流動性の可能性が少なくとも理念的、制度的に保証されていることが必要だからである。(5)
ところで、身を装う自由が確立されただけでは、衣生活の発展も流行現象の普及も不可能であった。個人主義的な、かつ文化的な枠組みの登場が不可欠であった。つまり、個人のアイデンティティは身体表現を通して具体化される、という意識が一般化する必要があったのである。個人のアイデンティティが身分や職業といった社会的な枠組みに依存していた時代には、身を飾る必要はあまりなかった。そうした時代にあっても、個人のあいだで差異競争がなかったわけではないが、それは小さな集団の域を超えて広がるものではなかった。そのような社会(73)においては、流行は全社会的な現象になることはできない。(6)
社会的な枠組みに依存していた時代は、心理的にはむしろとても生きやすい時代だったのではないかと思う。自分で努力しなくても、すでに伝統や習慣といった出来合いの規範が用意されていたからである。それは、制服があれば「明日、なにを着たらいいのか」などと迷わなくて
もすむのと同じである。(7)
(71)ここの()に入れるのにもっとも適当なものはどれか。
A.抵抗力 B.実行力 C.強制力 D.制御力
(72)ここの()に入れるのにもっとも適当なものはどれか。
A.そこで B.だから C.まして D.ただし
(73)「そのような社会」とあるが、それの指す社会とは次のどれか。
A.人々の拠って立つ基盤が、身分制度の枠の中で確定している社会
B.身分や職業などの枠組みの中で、自由な差異競争が許される社会
C.ファッションが一つの文化として、社会制度的に認知された社会
D.個人のアイデンティティが、服装により自由に表現でき得る社会
(74)次の文は、(1)~(7)のうちのどこに入れたらよいか。
自分を社会のなかでいかに位置づけるか。衣服の流行には、このように自己の社会的な位置づけに対する強烈な欲望の存在が必要とされる。
(75)「文章5」の内容に合致するものはどれか。
A.流行現象は、服が寒さを防ぐ基本的役割よりも、流行を気にしデザインを考える人々の出現だけでは生じない。
B.流行現象は、個人のアイデンティティが、身分や職業といった社会的な枠組みに依存している社会では生じない。
C.流行現象は、服を形や色や素材で構成するゲームだと考える人々にとって、個性が確立した社会では生じない。
D.流行現象は、社会的な流動性の可能性が制度的に保証され、自己の社会的位置付けへの意識が強い時に生じる。